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Sociologically Technological, and Technologically Sociological

論文を読んだ:Granovetter(1985)

Granovetter, 1985, “Economic Action and Social Structure: The Problem of Embeddedness”,American Journal of Sociology, 91, 481-510

 

 マーク=グラノヴェッターは、言わずと知れた名論文「弱い紐帯の強さThe Strength of Weak Ties」の著者である。周知のことだろうが、「弱い紐帯の強さ」とは、ざっくり言えば、「重要な情報は、親密な友人よりもむしろ、たまにしか会わない知人からもたらされるのではないか」というような話だ。ロナルド=バートが指摘しているように、実はこの議論において重要なのは紐帯の強さ/弱さではないということを強調しておきたいのだが、その話はまた別の機会に譲ることにする。とにかく、グラノヴェッターというのはネットワーク論における巨人の一人である。グラノヴェッターといえばネットワーク論だし、ネットワーク論といえばグラノヴェッターなのだ(あくまで筆者による見解)。「弱い紐帯の強さ」論文が引き起こした反響はとてつもなく大きかったが、彼は決して「アカデミックな一発屋」ではない。サンプリングによるネットワークサイズの推定や、情報の伝播に関する閾値モデルthreshold model、これらのネットワーク論における重要な知見は彼の業績の一部である。2014年6月4日現在、御年70歳、経済社会学を主なフィールドとして研究を続けている。

 彼が多岐にわたる成功を収めている理由の一つに、その理論的志向の強さがあると僕は思っている。例えば、「弱い紐帯」の重要性は、ハイダーのバランス理論などの検討を通して導き出されている。「弱い紐帯の強さ」のイメージからすれば意外かもしれないが、「先行する理論を扱う手つき」がものすごく鮮やかな人である。

 今回扱う論文も、グラノヴェッターの理論的志向が余すところなく顕現している。論題を日本語にすれば、「経済行動と社会構造:埋め込みの問題」となる。

 ちなみにこの論文の日本語訳は『転職』(ミネルヴァ書房)に収められているようだが、今回そちらは参照していない。そのうち読むかもしれないが…。

 さて、本論文の趣旨は、論題の通り、社会構造が経済行動に与える影響についての考察である。原子論的社会観を批判し、進行中の社会関係ongoing social relationsに埋め込まれたものとしての経済行動というアプローチを提起する。

 タルコット=パーソンズに代表される構造-機能主義では、ホッブズ的秩序問題を回避するために、共通価値や規範を従順に内面化する行為者というモデルが取られている。グラノヴェッターはこれを、デニス・ロングに倣って、過剰社会化された概念over-socialized conceptionつまり、規範の内面化など、社会構造が諸個人に与える影響が過大に見積もられているということだ。として批判する。一方、(新)古典主義経済学の想定する完全市場では、逆に諸個人は各人の利益を求めて振る舞う。そのような市場において、諸個人は各人の利益を追求し、一種の「万人の万人に対する闘争」が発生する。グラノヴェッターは、このようなモデルを過小社会化された概念under-socialized conception、つまり、規範の内面化など、社会構造が諸個人に与える影響が過小に見積もられているということだ。経済学者が(おそらく)パーソンズ理論に対してこんな皮肉を言っているらしいので、紹介しておく。肝に命じておきたい。”economics is all about how people make choices; sociology is all about how they don’t make choices.”

 それはともかく、グラノヴェッターが強調しているのは、これら2通りの見立てに共通している「原子化された行為者atomized actors」という概念が、「進行中の社会関係」を捨象してしまっているという点である。過小社会化された概念において、個人は「自己の」利益を増大させるように、功利主義的に振る舞う。一方、過剰社会化された概念においては、規範や価値は既に十分に内面化されている。いずれにおいても、いま・ここでの社会関係が諸個人の行為に影響する余地はない。これがグラノヴェッターによる批判の要点である。これは、古典主義的経済学に関しては仕方ないことである。論文の中でも触れられているように、古典的な経済理論において、複雑な社会関係というのは、議論を撹乱する要因になってしまう。これは、物理学においてしばしば摩擦駆動frictional dragを無視するのと同様の事情である。ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない。オッカムの剃刀のような話だ。

 しかし、経済学者が社会関係を全く考慮していないわけではない。ゲイリー・ベッカーなどはこの問題に取り組んだ経済学者の1人である。とは言っても、彼らが考えたのは、労働者と管理者、夫と妻、犯罪者と警察官など、歴史的・構造的背景を抜きにした「典型的な」関係性である。これらは原子論を超克していると思いきや、実は問題を先送りにしているだけである。「原子化は除去されていない、単に二者関係や分析の高次元に移転されたにすぎない。」(487)

 1970年代になると、経済学者の中にも、不完全市場について、例えばこれまで無視されがちだった「信頼trust」や「違法行為malfeasance」の問題について考えようとする一派が登場する。いわゆる新制度学派と呼ばれる学問的潮流である。新制度学派とは、グラノヴェッターによれば、「これまで法的、歴史的、社会的あるいは政治的な力の外生的な帰結として考えられてきた社会的制度や協定arrangement(※訳に自信なし)は、特定の経済的問題に対する効果的な解決策として捉えるのがよい」(488)というようなことを一般的に語る人たちのことである。僕自身そこまで経済学に明るくないので、ここではグラノヴェッターによる紹介を信頼することにする。

 オリバー=ウィリアムソンのような新制度学派の経済学者は、「良い制度は違法行為を行うコストを上げることで、違法行為を阻止する」という見方を取る。しかしこれは、「信頼」ではなく、「信頼の機能的代替物」がそうさせているだけである。これは結果的にホッブズ的な無秩序の状態と同じである。諸個人は機会主義に基づいて、その「信頼の機能的代替物」の影響を回避しようとするからだ。グラノヴェッターは、だから、これを過小社会化された概念だとして批判する。また、ケネス・アローの「一般化された道徳generalized morality」のような、自動的に生成されるものとしての信頼という見方も拒絶する。

 したがって、「埋め込みの議論は、代わりに、信頼を生みだし違法行為を抑制するという点で、凝集的な人間関係やそのような関係の構造(もしくは「ネットワーク」)を重視する」(490)。例えば、映画館が火事になったとき、一刻も早く避難したい観客はいっせいに出口に殺到し、結局効率的な避難ができなくなる。これはn人囚人のジレンマとして有名な事例だが、これは見知らぬ群衆の例であり、家族の場合を考えてみると、少し事情が異なる。例えば、夜の11時に、ある一家の住む家が火事になったとしよう。そこで家族は自分勝手に避難するだろうか。そうではないはずだ。おそらく家族は互いに助け合う。このように、人々の合理的な判断には、社会関係が無視できない変数として組み込まれる時があるのだ。

 もちろん、社会関係を考えることが万能薬というわけではない。第一に、社会関係は経済生活の中で異なる程度、異なる次元を貫いているため、無秩序や機会主義が台頭する余地を認めざるをえないということ。第二に、社会関係が必ずしも違法行為やコンフリクトを生まないと保証されているわけではない、むしろ社会関係が空白の時よりも助長してしまうことがあるということだ。信頼が違法行為を助長する一つの例として、窃盗団が挙げられるだろう。窃盗は1人でやるよりも徒党を組んだほうが成功しやすい(らしい)。だから窃盗団は、内部で強固な信頼関係を結んで、ソロプレイよりも効果的な仕事を行う。「実行可能な違法行為のレベルは、真に原子化された社会関係の中では極めて低い」(493)。このあたりはソーシャル・キャピタルの負の側面とも関連する話だから、今後また触れる機会があるかもしれない。

 ここからは、この「埋め込み」アプローチの応用例として市場とヒエラルキーの問題を考えようというのだが、専門外&まとめるのが疲れたので、企業の取引費用理論に対する批判のみを、ざっくりと、メモ書き程度に整理しておく。ここでいう取引費用理論とは、「企業という組織が存在するのは、取引費用を最も効率的に処理するためである」というような話のことで、これもウィリアムソンによって提起された。

 この取引費用理論は、特殊な投資や企業内ヒエラルキーによる統制などの諸々の理由によって、企業内部の取引は他の企業との取引よりもコストが低いことを前提としている。しかし、公式的なヒエラルキーが存在しても、部署間の政治力学(=社会関係)によって、むしろ企業内取引のほうが難しくなってしまうことがある、というような話なのだと理解したが、もし誤っていたらこの記事を読んだ賢人が指摘してくれるだろう。

 過程はほとんど省略してしまうが、最終的にグラノヴェッターは言う。「他の条件が同じならば、例えば、我々は取引する企業transacting firmsが人間関係のネットワークを欠いているような、そのようなネットワークがコンフリクト、無秩序、機会主義あるいは違法行為に帰着するような市場においては、垂直的な統合のへ向かう圧力を予期してしかるべきである。他方で、安定的な人間関係のネットワークが複雑な取引を仲介し、企業間の振る舞いの規準を作り出すような市場においては、そのような圧力は存在しないはずである。」(503)

 先日、パトナムのmaking democracy work(1993)を読んだのだが、北イタリアと南イタリアの社会関係はまさにこの両者の区分に対応している。あの本によれば、北イタリアでは水平的な社会関係が、南イタリアでは垂直的な社会関係が営まれているという。だが、パトナムの論では、たしか南イタリアでは垂直的な統合→草の根のネットワークの不在という論理構成が取られていたと思う。対照的に、グラノヴェッターはネットワークの存在/不在から統合のあり方を導いているような気もする。これは鶏卵問題に足を突っ込むことになるかもしれないので、これ以上の言及や避けておこう。そもそもテクスト解釈が誤っている可能性がある。

 本文の内容についての雑駁な紹介は以上である。グラノヴェッターは理論家であるという思いを強めた論文だったが、一つだけ不満があるとすれば、「埋め込み」とはなんぞや、ということが問われていないことである。ネットワークや人間関係に情報が「埋め込まれている」というようなことはよく言われているが、それがどうもメタファーにしか過ぎないような気がしてならないのである。この論文も、そうしたところに突っ込むようなある種の哲学的な議論が展開されることを期待していたのだが…僕の読み込みが浅いのだろうか。いずれにせよ精進することにする。