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Sociologically Technological, and Technologically Sociological

論文を読んだ:田邊(1999)

田邊浩, 1999,「社会統合とシステム統合・再考-構造化理論 VS. 社会的実在論を中心として」『金沢大学文学部論集 行動科学・哲学篇』 19 pp.35-60

 金沢大学で構造化理論を中心に研究されている田邊先生による、社会統合とシステム統合について、その起源から現代的展開までを扱った、いわゆるレビュー論文である。(レビュー論文をレビューするというのもなんだか気持ちが悪い…。

 社会統合/システム統合とは、ギデンズの『社会理論の最前線 (原題:The Central Problems of Social Theory)』なんかを読んだ方はお分かりだと思われるが、ミクロ-マクロ問題と密接な関連を持っている概念区分である。

 その起源は、イギリスの社会学者デイヴィッド・ロックウッドDavid Lockwoodに遡る。

ロックウッドによる定式化

  • 社会統合…行為者間の関係における統合
  • システム統合…システムの部分間の関係における統合

 ちなみにこの概念区別は、マルクスにヒントを得たものらしい。この社会統合/システム統合を持ち出すと、いったいどんなご利益があるのか。それは、パーソンズ流の規範的機能主義やコンフリクト理論に欠けていた「社会変動」という問題を上手く扱えるということだ。あるコンフリクトは社会変動をもたらし、一方で別のあるコンフリクトは社会変動をもたらさない。では、この差異はいかに説明されるか、というのが彼の関心である。

まず、システムの部分間に不調和が生じる。それが、社会統合のレベルに影響を及ぼす。諸行為者がそうしたシステム矛盾をいかに取り扱うかによって、変動が生じるかどうか、どのようなかたちで変動が生じるのか、が決まってくるのである。(3)

  ここからは僕の解釈であるが、上の田邊の整理における「システムの部分に不調和が生じる」とは、例えばマルクスの理論における「生産力」と「生産関係」の間の矛盾のような話だと思われる(本文にもロックウッドはそこからアイデアを拝借したと書いてあるのだが)。この「生産力」と「生産関係」の間の矛盾は、システム統合のレベルに存在している。この矛盾は、労働者と資本家の生活に影響を与えずにはいられない。矛盾が増大していけば、労働者による蜂起は避けられなくなる。だから、例えば、資本家たちは賃上げなど、労働者の待遇改善について協議するだろう。その結果によって、矛盾がどのような帰結を迎えるかが左右される。このような資本家たちの協議は、行為者間の関係、つまり社会統合のレベルに存在する。仮に資本家たちが賃上げをした場合、システム矛盾は緩和されるだろうが、賃上げをしなかった場合、システム矛盾はさらに増大し、悪循環に陥ることとなる。最終的に待っているのは労働者による反乱である。つまり、社会変動を主導するのはシステム統合のレベルであるが、それは決定論的ではない。社会統合のレベルで、システム矛盾に対してどのような行為が執られるかによって、その後の社会変動がは果たして発生するか、あるいは、どのように進んでいくかは変わってくる。

 ハーバーマスもまた、社会統合/システム統合という概念を用いている。

ハーバーマスによる定式化

  • 社会統合…規範的・コミュニケーション的に関わらず、合意による統合
  • システム統合…主観的に調整されていない個々の決定を非規範的に制御することによる統合

ハーバーマスがこの概念区別を持ちだしたのは、「いわゆる理解社会学・解釈学的社会学と機能主義との結合がもくろまれている」だという。

ハーバーマスは理解社会学の意義をくみとりつつも、社会と生活世界を同一視することは拒否する。社会の統合は、了解に志向した行為の前提のもとでのみ実現するのではない。社会文化的生活世界の成員たち自身には、その過程どおりにみえるかもしれないが、現実には、了解過程にもとづいて調整されるだけでなく、かれら自身の意図せぬ、また日常実践の地平の内部ではたいてい気づかれていないような、機能的連関にもとづいて調整される。したがって、社会統合とは区別されたシステム統合の概念が必要とされる。(4)

ロックウッドと異なるのは、ハーバーマスにおいては社会統合のほうに力点が置かれているということだ。

システム統合のレベルでいかなる制度的不調和が生じようと、社会統合レベルでのコンフリクトが生じなければ、それは社会変動に至ることはない。(4) 

 このあたりはあまり腑に落ちなかったのだが、先の労働者/資本家の例で言えば、どれだけ生産力と生産関係の矛盾が広がっていようが、それを「矛盾である」という合意がなされていなければ何も起こらない、ということだろうか。

 よく寄せられる批判としては、ハーバーマスによるこの概念区別は方法論的(分析的)なものなのか、実体論的なものなのか、ということだという。

 

 次はギデンズである。ギデンズは、「統合」を行為者間もしくは集合体間の絆・相互交換・実践の互酬性」として、以下のような定式化を行う。

ギデンズによる定式化(『社会の構成』時)

  • 社会統合…共在の文脈における諸行為者間の互酬性
  • システム統合…拡張された時間-空間を超えた諸行為者・諸集合体間の互酬性

前者では「共在」が、後者では「不在」ということがポイントである。このような定式化によってギデンズが目標とするのは、ミクローマクロ問題を超克することである。

ギデンズによれば、ミクロとマクロという概念的区別は、つぎのことを想定している。第一に、ミクロ的な分析は社会生活の主観的な側面に、マクロ的分析が客観的な社会構造に焦点を当てると見なすことである。第二に、ミクロ的なアプローチを自由な行為作用と、マクロ的なアプローチを構造的拘束と結びつけて考える傾向があることである。ギデンズは、こうしたものは虚偽の二元論的な対立にすぎないとする。(6)

ギデンズの定式化に従えば、上の引用のような欠陥を孕むミクローマクロという問題は、ある行為者が取り結んでいるのが、共在した他者との関係か、不在の他者との関係か、という違いに代替される。そこでは、ミクローマクロの持つ「規模の大小」だとか「主観-客観」のような図式は意味をなさなくなる。これがギデンズの概念戦略である。

 この後、ニコス・ムーゼリスやマーガレット・アーチャーなどの「社会実在論」者が、ロックウッドを継承した形で、ギデンズの社会統合/システム統合概念に批判を行い、現代的展開を形成していくのだが、簡単にいえば、ギデンズは行為者をフラットに考えすぎていて、構造に多大な影響を与えるであろうマクロ行為者を考慮に入れていない、であるとか、行為と構造が「中央融合」してしまって、時間が考慮に入れられていないという批判である。より詳しいことはまた時間があれば整理する。