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Sociologically Technological, and Technologically Sociological

Thinking Through Statistics 第8章についてのメモ

※この記事は年明けの読書会での資料作成用メモです。

Chapter 8: When the World Knows More about the Processes than You Do

Making Knowledge out of Ignorance

  • 無知が誤った結論を導くケース
    • 特にこの章で扱うのは、不十分な測定が紐帯を過小/過大評価するケース。
    • (例)階級同類婚
      • 研究者の階級観と被調査者の階級観は異なる。
      • 階級の数をどう決めるか=どのようにも決められるという問題がある。
      • 極端に言えばランダムにカテゴリを振れば同類婚は起きないと結論づけられる。

Families

  • 世界は我々がアクセスできない情報を持っていることがある。
    • (例)人種の自認 — 本人の宗教と祖父母世代の交絡
  • 我々のモデルやデータが不完全な時、実世界とは異なる形式での連関が認められる。
    • (例)三世代での階層移動データ
      • 世代に関するマルコフ性だけを仮定した架空データでも、OLSすると祖父母世代の影響が出てくる。
      • ランダムな回答誤差を与えるだけでこれが起きてしまう。

Social Networks: What They Know

  • ネットワークデータの統計的処理に関する諸問題
    • サンプル間の非独立性
    • 研究者が関知しない属性の影響
    • 存在的非独立性(existential non-independence)
      • ある紐帯の存在/非存在が他の紐帯のそれに影響を与える。

Letting the Network Determine Your Sample

  • ネットワークサンプリングに関する諸問題
    • スノーボールサンプリングの一種であるRDS(respondent-driven sampling)は体系的に代表的でない。
      • 数珠つなぎ的にサンプルを選んでいくと、ポピュラーな人にたどり着きやすく、つながりが少ない人にはアクセスしにくい(c.f. Friendship Paradox)。
      • SalgenikによるRDSの修正
        • 重複抽出を許容する。
        • 回答者の知り合いからランダムに抽出する。
      • RDSには限界があったが、それでもこの手法でどこまでのことが現実的に言えるのかを評価していくことは重要。

Interdependencies

  • ネットワークデータの構造的相互依存性にどう対処するか
    • 中和 — 相互依存性に対してロバストな手法を使うこと
      • QAP
        • 並び替え検定の一種。
      • multiway non-nested clustering to correct standard errors
    • 構造を記述するに留める
    • 構造的な原理それ自体を説明する
      • ERGMs
        • ネットワークをその局所的な構造に因子分解することで、ネットワーク形成メカニズムをモデリングする。
          • 問題:
            • モデル退化(degeneracy)の問題。
            • そもそもパラメータが一切推定できなくなる場合がある。
            • 非構造的なパラメータ(e.g. ノードの属性)はHammersley-Cliffordの定理とのつながりを欠いている。
        • ERGMの「儀礼化」(=何も考えずにとりあえずERGMを使っておけばいいだろうという思考停止のこと?)は問題で、ERGMの推定でクラッシュするくらいなら、たとえbestimatesでなくても、ロジスティック回帰を使ったほうがよいという判断もありえる。

合理的選択理論の文献リスト

【個人的メモ・随時更新】

 

Blau, P. M. (1987). Microprocess and macrostructure. Social exchange theory, 83-100.

Boudon, R. (1982). The unintended consequences of social action.

Boudon, R. (2003). Beyond rational choice theory. Annual review of sociology,29(1), 1-21.

Coleman, J. S., & Fararo, T. J. (1992). Rational choice theory. Nueva York: Sage.

Coleman, J. S.(1990). Foundations of social theory. Harvard University Press.

Collins, R. (1981). On the microfoundations of macrosociology. American journal of sociology, 984-1014.

Dahrendorf, R. (2006). Homo sociologicus (pp. 15-101). VS Verlag für Sozialwissenschaften.

Elster, J. (1989). Nuts and bolts for the social sciences (p. 13). Cambridge: Cambridge University Press.

Goldthorpe, J. H. (1998). Rational action theory for sociology. British Journal of Sociology, 167-192.

SSIシンポジウムに行ってきた。

社会情報学会(SSI)主催のシンポジウム「ビッグデータの可能性と課題──監視・シュミレーション・プライバシー」に行ってきた。開催地は中央大学駿河台記念館で、本郷から自転車に乗って5分程度で着いた。会場は非常にこじんまりとした会議室で、20人程度の参加者がいたと思う。

 

発表者・発表題目は以下の通りである。

 

橋田浩一(東京大学)

「集めないビッグデータ: 情報の分散管理による個人の尊厳と公共の福祉

板倉陽一郎(弁護士)

ビッグデータに関連する制度検討の現状」

吉田寛(静岡大学)

「世界表象としてのビッグデータ

 

橋田さんの「集めないビッグデータ」は、パーソナルデータを集中管理するよりも、各個人に分散させ、各個人が共有する範囲を決めるようにする(=分散PDS)ほうが、コスト削減や「人間の尊厳」、または「公共の福祉」にとって良い、というような内容であった。橋田さんは現実的なコスト、あるいはベネフィットや、具体的な実装例を中心にお話されていたが、先日自主ゼミで扱ったISED第6回に登場した「リトルイッツ同士のアンリンカビリティ」という論点と重なる部分が大きく、僕は終始プライバシーの問題として話を聞いていた。

板倉さんは、現在、日本の政府委員会のレベルで現在どの程度まで政策協議が進んでいるかという現状報告をされた。「『個人情報保護法は世紀の悪法だ!』と批判していた新聞も絶対100年間ずっと批判するわけではない。それどころか2,3年たったらどの新聞も何も言わない。忘れられ始めた頃が一番気をつけなければならない。」(大意)という言葉が印象的であった。面白そうな内容だけを何点か紹介しておく。一つ目、欧米の議論がパーソナルデータ「保護」を中心としているのに対して、日本はパーソナルデータ「利活用」が中心らしい。が、これは政府意向に沿うかたちで表向きにはそうなっているだけであって、実際には「保護」についても積極的に議論が進んでいる。二つ目、「利活用」に主眼が置かれていることとも関連するが、「個人が特定される可能性を低減したデータ」を、本人同意なしで利用可能にする動きがあるということである。このあたりは「低減」の基準をめぐって色々と議論の余地がありそうな気がする。

このシンポジウムで最も興味深かったのが吉田さんの発表であった。吉田さんはウィトゲンシュタインがご専門のようだが、今回の発表は「ビッグデータ」を「表象」という視点から読み解く、というのが主旨であった。まず、「表象」とは「対象があり、それを再度何らかの媒体によって提示したもの」であり、それはさらに「局所表象」と「分散表象」の2種類に下位分類できることを確認しておく。局所表象とは、表象の処理過程が可視化・分析できるような表象のことで、ざっくり言えば意味のある仕方でまとまっている表象のことである。一方、分散表象とは、その処理過程がブラックボックスになっているような、ざっくり言えば意味のある仕方で取り出せない表象のことである。吉田さんは、このような区別を置いた上で、「ビッグデータという分散表象から、突然リスクが局所表象として出現する」可能性があるという問題提起を行う。ビッグデータとはまさに分散表象である。巨大なデータの集合は、一見すると「もやもや」していて、「わけのわからない」もののように見える。しかし、そのデータに対して、例えば重回帰分析などの統計的手法を適用することで、何らかの規則性を取り出すことができる。これは分散表象を局所表象に変換することと意味的に対応している。問題なのは、この変換の過程がブラックボックスになっていることである。話が抽象的だから、例を出しておこう。この点に関して、質疑応答で橋田さんが将棋プログラムの話をされていた。かつての将棋プログラムは、人間がプログラムに特定の戦略をインプットする方式で作られていた。だから、開発者はある状況でのプログラムの動きを自分で説明することができた。しかし現在の将棋プログラムは、膨大な試合のデータなどを統計的に処理させる機械学習というプロセスで作られている。だから、開発者でさえも将棋プログラムの挙動を説明できない。もう一つ、こちらは吉田さん自身が挙げた例であるが、遺伝子データを解析すると重大な病気のリスクが判明することがある。だが、このようなケースでは、おおかたの場合、そのようなデータを解析するとなぜそのような結果が得られるのか、その解釈が判然としない。このようなことを吉田さんは「雨乞い」に似た、反知性主義であると言っていたが、ビッグデータにおいては、このように「システムが突然語り出す」。分散表象(=遺伝子データ)から、突如として局所表象(病気のリスク)が浮かび上がってくる。そして、このシステムは「いったん起動したら、理由はわからなくても従うか従わないかの決断しかない」。遺伝子データの解析から、重大な病気のリスクが分かってしまったら、その病気を治療するか/治療しないかという決断をしなければならない。ここで、主体性や自由はもちろん、「誰か責任を取るか」という問題が前景化してくる。これは、データサイエンティストがその責任を取ればいい、という単純な問題ではない。データサイエンティストたちは、あくまで「私ではなく、データがそう言っているのだ」と弁明するだろう。では、「データ」が責任を引き受けるのか?しかしデータは人間ではないから、責任の取りようがない。非常に難しい問題である。吉田さんはさらに「ブラックボックスを通した訓育が許されるのか」「ブラックボックス化が偽装される可能性はあるか」「ビッグデータによる予測の自己循環と閉塞」などの問題提起を行った。このような議論はビッグデータをめぐってこれまでなされてきたと思われるが、「分散表象」「局所表象」という用語法は、ビッグデータの本質である「もやもや」感を学術的な議論のレベルに底上げするために有効であるように感じた。

 各発表の要約は以上だが、質疑応答で興味深いやりとりがあったので最後に紹介しておく。

Q.システムの弾きだした予測と個人の感覚との間のズレに対して違和感を表明していくことが抵抗になっていくのではないか。(例:Amazonのレコメンドが自分の好みを全く反映していない)

→吉田:そうした違和感を表明していくために「良識 bon sens」というものを涵養するのが大事だけれども、仮に生まれた時からAmazonで育ってきた子どもは違和感を表明できるのだろうか。

→質問者:子どもを生まれた時からAmazonで育てるようなことをしてはいけないというのが「良識」ではないだろうか。

論文を読んだ:田邊(1999)

田邊浩, 1999,「社会統合とシステム統合・再考-構造化理論 VS. 社会的実在論を中心として」『金沢大学文学部論集 行動科学・哲学篇』 19 pp.35-60

 金沢大学で構造化理論を中心に研究されている田邊先生による、社会統合とシステム統合について、その起源から現代的展開までを扱った、いわゆるレビュー論文である。(レビュー論文をレビューするというのもなんだか気持ちが悪い…。

 社会統合/システム統合とは、ギデンズの『社会理論の最前線 (原題:The Central Problems of Social Theory)』なんかを読んだ方はお分かりだと思われるが、ミクロ-マクロ問題と密接な関連を持っている概念区分である。

 その起源は、イギリスの社会学者デイヴィッド・ロックウッドDavid Lockwoodに遡る。

ロックウッドによる定式化

  • 社会統合…行為者間の関係における統合
  • システム統合…システムの部分間の関係における統合

 ちなみにこの概念区別は、マルクスにヒントを得たものらしい。この社会統合/システム統合を持ち出すと、いったいどんなご利益があるのか。それは、パーソンズ流の規範的機能主義やコンフリクト理論に欠けていた「社会変動」という問題を上手く扱えるということだ。あるコンフリクトは社会変動をもたらし、一方で別のあるコンフリクトは社会変動をもたらさない。では、この差異はいかに説明されるか、というのが彼の関心である。

まず、システムの部分間に不調和が生じる。それが、社会統合のレベルに影響を及ぼす。諸行為者がそうしたシステム矛盾をいかに取り扱うかによって、変動が生じるかどうか、どのようなかたちで変動が生じるのか、が決まってくるのである。(3)

  ここからは僕の解釈であるが、上の田邊の整理における「システムの部分に不調和が生じる」とは、例えばマルクスの理論における「生産力」と「生産関係」の間の矛盾のような話だと思われる(本文にもロックウッドはそこからアイデアを拝借したと書いてあるのだが)。この「生産力」と「生産関係」の間の矛盾は、システム統合のレベルに存在している。この矛盾は、労働者と資本家の生活に影響を与えずにはいられない。矛盾が増大していけば、労働者による蜂起は避けられなくなる。だから、例えば、資本家たちは賃上げなど、労働者の待遇改善について協議するだろう。その結果によって、矛盾がどのような帰結を迎えるかが左右される。このような資本家たちの協議は、行為者間の関係、つまり社会統合のレベルに存在する。仮に資本家たちが賃上げをした場合、システム矛盾は緩和されるだろうが、賃上げをしなかった場合、システム矛盾はさらに増大し、悪循環に陥ることとなる。最終的に待っているのは労働者による反乱である。つまり、社会変動を主導するのはシステム統合のレベルであるが、それは決定論的ではない。社会統合のレベルで、システム矛盾に対してどのような行為が執られるかによって、その後の社会変動がは果たして発生するか、あるいは、どのように進んでいくかは変わってくる。

 ハーバーマスもまた、社会統合/システム統合という概念を用いている。

ハーバーマスによる定式化

  • 社会統合…規範的・コミュニケーション的に関わらず、合意による統合
  • システム統合…主観的に調整されていない個々の決定を非規範的に制御することによる統合

ハーバーマスがこの概念区別を持ちだしたのは、「いわゆる理解社会学・解釈学的社会学と機能主義との結合がもくろまれている」だという。

ハーバーマスは理解社会学の意義をくみとりつつも、社会と生活世界を同一視することは拒否する。社会の統合は、了解に志向した行為の前提のもとでのみ実現するのではない。社会文化的生活世界の成員たち自身には、その過程どおりにみえるかもしれないが、現実には、了解過程にもとづいて調整されるだけでなく、かれら自身の意図せぬ、また日常実践の地平の内部ではたいてい気づかれていないような、機能的連関にもとづいて調整される。したがって、社会統合とは区別されたシステム統合の概念が必要とされる。(4)

ロックウッドと異なるのは、ハーバーマスにおいては社会統合のほうに力点が置かれているということだ。

システム統合のレベルでいかなる制度的不調和が生じようと、社会統合レベルでのコンフリクトが生じなければ、それは社会変動に至ることはない。(4) 

 このあたりはあまり腑に落ちなかったのだが、先の労働者/資本家の例で言えば、どれだけ生産力と生産関係の矛盾が広がっていようが、それを「矛盾である」という合意がなされていなければ何も起こらない、ということだろうか。

 よく寄せられる批判としては、ハーバーマスによるこの概念区別は方法論的(分析的)なものなのか、実体論的なものなのか、ということだという。

 

 次はギデンズである。ギデンズは、「統合」を行為者間もしくは集合体間の絆・相互交換・実践の互酬性」として、以下のような定式化を行う。

ギデンズによる定式化(『社会の構成』時)

  • 社会統合…共在の文脈における諸行為者間の互酬性
  • システム統合…拡張された時間-空間を超えた諸行為者・諸集合体間の互酬性

前者では「共在」が、後者では「不在」ということがポイントである。このような定式化によってギデンズが目標とするのは、ミクローマクロ問題を超克することである。

ギデンズによれば、ミクロとマクロという概念的区別は、つぎのことを想定している。第一に、ミクロ的な分析は社会生活の主観的な側面に、マクロ的分析が客観的な社会構造に焦点を当てると見なすことである。第二に、ミクロ的なアプローチを自由な行為作用と、マクロ的なアプローチを構造的拘束と結びつけて考える傾向があることである。ギデンズは、こうしたものは虚偽の二元論的な対立にすぎないとする。(6)

ギデンズの定式化に従えば、上の引用のような欠陥を孕むミクローマクロという問題は、ある行為者が取り結んでいるのが、共在した他者との関係か、不在の他者との関係か、という違いに代替される。そこでは、ミクローマクロの持つ「規模の大小」だとか「主観-客観」のような図式は意味をなさなくなる。これがギデンズの概念戦略である。

 この後、ニコス・ムーゼリスやマーガレット・アーチャーなどの「社会実在論」者が、ロックウッドを継承した形で、ギデンズの社会統合/システム統合概念に批判を行い、現代的展開を形成していくのだが、簡単にいえば、ギデンズは行為者をフラットに考えすぎていて、構造に多大な影響を与えるであろうマクロ行為者を考慮に入れていない、であるとか、行為と構造が「中央融合」してしまって、時間が考慮に入れられていないという批判である。より詳しいことはまた時間があれば整理する。

論文を読んだ:Granovetter(1985)

Granovetter, 1985, “Economic Action and Social Structure: The Problem of Embeddedness”,American Journal of Sociology, 91, 481-510

 

 マーク=グラノヴェッターは、言わずと知れた名論文「弱い紐帯の強さThe Strength of Weak Ties」の著者である。周知のことだろうが、「弱い紐帯の強さ」とは、ざっくり言えば、「重要な情報は、親密な友人よりもむしろ、たまにしか会わない知人からもたらされるのではないか」というような話だ。ロナルド=バートが指摘しているように、実はこの議論において重要なのは紐帯の強さ/弱さではないということを強調しておきたいのだが、その話はまた別の機会に譲ることにする。とにかく、グラノヴェッターというのはネットワーク論における巨人の一人である。グラノヴェッターといえばネットワーク論だし、ネットワーク論といえばグラノヴェッターなのだ(あくまで筆者による見解)。「弱い紐帯の強さ」論文が引き起こした反響はとてつもなく大きかったが、彼は決して「アカデミックな一発屋」ではない。サンプリングによるネットワークサイズの推定や、情報の伝播に関する閾値モデルthreshold model、これらのネットワーク論における重要な知見は彼の業績の一部である。2014年6月4日現在、御年70歳、経済社会学を主なフィールドとして研究を続けている。

 彼が多岐にわたる成功を収めている理由の一つに、その理論的志向の強さがあると僕は思っている。例えば、「弱い紐帯」の重要性は、ハイダーのバランス理論などの検討を通して導き出されている。「弱い紐帯の強さ」のイメージからすれば意外かもしれないが、「先行する理論を扱う手つき」がものすごく鮮やかな人である。

 今回扱う論文も、グラノヴェッターの理論的志向が余すところなく顕現している。論題を日本語にすれば、「経済行動と社会構造:埋め込みの問題」となる。

 ちなみにこの論文の日本語訳は『転職』(ミネルヴァ書房)に収められているようだが、今回そちらは参照していない。そのうち読むかもしれないが…。

 さて、本論文の趣旨は、論題の通り、社会構造が経済行動に与える影響についての考察である。原子論的社会観を批判し、進行中の社会関係ongoing social relationsに埋め込まれたものとしての経済行動というアプローチを提起する。

 タルコット=パーソンズに代表される構造-機能主義では、ホッブズ的秩序問題を回避するために、共通価値や規範を従順に内面化する行為者というモデルが取られている。グラノヴェッターはこれを、デニス・ロングに倣って、過剰社会化された概念over-socialized conceptionつまり、規範の内面化など、社会構造が諸個人に与える影響が過大に見積もられているということだ。として批判する。一方、(新)古典主義経済学の想定する完全市場では、逆に諸個人は各人の利益を求めて振る舞う。そのような市場において、諸個人は各人の利益を追求し、一種の「万人の万人に対する闘争」が発生する。グラノヴェッターは、このようなモデルを過小社会化された概念under-socialized conception、つまり、規範の内面化など、社会構造が諸個人に与える影響が過小に見積もられているということだ。経済学者が(おそらく)パーソンズ理論に対してこんな皮肉を言っているらしいので、紹介しておく。肝に命じておきたい。”economics is all about how people make choices; sociology is all about how they don’t make choices.”

 それはともかく、グラノヴェッターが強調しているのは、これら2通りの見立てに共通している「原子化された行為者atomized actors」という概念が、「進行中の社会関係」を捨象してしまっているという点である。過小社会化された概念において、個人は「自己の」利益を増大させるように、功利主義的に振る舞う。一方、過剰社会化された概念においては、規範や価値は既に十分に内面化されている。いずれにおいても、いま・ここでの社会関係が諸個人の行為に影響する余地はない。これがグラノヴェッターによる批判の要点である。これは、古典主義的経済学に関しては仕方ないことである。論文の中でも触れられているように、古典的な経済理論において、複雑な社会関係というのは、議論を撹乱する要因になってしまう。これは、物理学においてしばしば摩擦駆動frictional dragを無視するのと同様の事情である。ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない。オッカムの剃刀のような話だ。

 しかし、経済学者が社会関係を全く考慮していないわけではない。ゲイリー・ベッカーなどはこの問題に取り組んだ経済学者の1人である。とは言っても、彼らが考えたのは、労働者と管理者、夫と妻、犯罪者と警察官など、歴史的・構造的背景を抜きにした「典型的な」関係性である。これらは原子論を超克していると思いきや、実は問題を先送りにしているだけである。「原子化は除去されていない、単に二者関係や分析の高次元に移転されたにすぎない。」(487)

 1970年代になると、経済学者の中にも、不完全市場について、例えばこれまで無視されがちだった「信頼trust」や「違法行為malfeasance」の問題について考えようとする一派が登場する。いわゆる新制度学派と呼ばれる学問的潮流である。新制度学派とは、グラノヴェッターによれば、「これまで法的、歴史的、社会的あるいは政治的な力の外生的な帰結として考えられてきた社会的制度や協定arrangement(※訳に自信なし)は、特定の経済的問題に対する効果的な解決策として捉えるのがよい」(488)というようなことを一般的に語る人たちのことである。僕自身そこまで経済学に明るくないので、ここではグラノヴェッターによる紹介を信頼することにする。

 オリバー=ウィリアムソンのような新制度学派の経済学者は、「良い制度は違法行為を行うコストを上げることで、違法行為を阻止する」という見方を取る。しかしこれは、「信頼」ではなく、「信頼の機能的代替物」がそうさせているだけである。これは結果的にホッブズ的な無秩序の状態と同じである。諸個人は機会主義に基づいて、その「信頼の機能的代替物」の影響を回避しようとするからだ。グラノヴェッターは、だから、これを過小社会化された概念だとして批判する。また、ケネス・アローの「一般化された道徳generalized morality」のような、自動的に生成されるものとしての信頼という見方も拒絶する。

 したがって、「埋め込みの議論は、代わりに、信頼を生みだし違法行為を抑制するという点で、凝集的な人間関係やそのような関係の構造(もしくは「ネットワーク」)を重視する」(490)。例えば、映画館が火事になったとき、一刻も早く避難したい観客はいっせいに出口に殺到し、結局効率的な避難ができなくなる。これはn人囚人のジレンマとして有名な事例だが、これは見知らぬ群衆の例であり、家族の場合を考えてみると、少し事情が異なる。例えば、夜の11時に、ある一家の住む家が火事になったとしよう。そこで家族は自分勝手に避難するだろうか。そうではないはずだ。おそらく家族は互いに助け合う。このように、人々の合理的な判断には、社会関係が無視できない変数として組み込まれる時があるのだ。

 もちろん、社会関係を考えることが万能薬というわけではない。第一に、社会関係は経済生活の中で異なる程度、異なる次元を貫いているため、無秩序や機会主義が台頭する余地を認めざるをえないということ。第二に、社会関係が必ずしも違法行為やコンフリクトを生まないと保証されているわけではない、むしろ社会関係が空白の時よりも助長してしまうことがあるということだ。信頼が違法行為を助長する一つの例として、窃盗団が挙げられるだろう。窃盗は1人でやるよりも徒党を組んだほうが成功しやすい(らしい)。だから窃盗団は、内部で強固な信頼関係を結んで、ソロプレイよりも効果的な仕事を行う。「実行可能な違法行為のレベルは、真に原子化された社会関係の中では極めて低い」(493)。このあたりはソーシャル・キャピタルの負の側面とも関連する話だから、今後また触れる機会があるかもしれない。

 ここからは、この「埋め込み」アプローチの応用例として市場とヒエラルキーの問題を考えようというのだが、専門外&まとめるのが疲れたので、企業の取引費用理論に対する批判のみを、ざっくりと、メモ書き程度に整理しておく。ここでいう取引費用理論とは、「企業という組織が存在するのは、取引費用を最も効率的に処理するためである」というような話のことで、これもウィリアムソンによって提起された。

 この取引費用理論は、特殊な投資や企業内ヒエラルキーによる統制などの諸々の理由によって、企業内部の取引は他の企業との取引よりもコストが低いことを前提としている。しかし、公式的なヒエラルキーが存在しても、部署間の政治力学(=社会関係)によって、むしろ企業内取引のほうが難しくなってしまうことがある、というような話なのだと理解したが、もし誤っていたらこの記事を読んだ賢人が指摘してくれるだろう。

 過程はほとんど省略してしまうが、最終的にグラノヴェッターは言う。「他の条件が同じならば、例えば、我々は取引する企業transacting firmsが人間関係のネットワークを欠いているような、そのようなネットワークがコンフリクト、無秩序、機会主義あるいは違法行為に帰着するような市場においては、垂直的な統合のへ向かう圧力を予期してしかるべきである。他方で、安定的な人間関係のネットワークが複雑な取引を仲介し、企業間の振る舞いの規準を作り出すような市場においては、そのような圧力は存在しないはずである。」(503)

 先日、パトナムのmaking democracy work(1993)を読んだのだが、北イタリアと南イタリアの社会関係はまさにこの両者の区分に対応している。あの本によれば、北イタリアでは水平的な社会関係が、南イタリアでは垂直的な社会関係が営まれているという。だが、パトナムの論では、たしか南イタリアでは垂直的な統合→草の根のネットワークの不在という論理構成が取られていたと思う。対照的に、グラノヴェッターはネットワークの存在/不在から統合のあり方を導いているような気もする。これは鶏卵問題に足を突っ込むことになるかもしれないので、これ以上の言及や避けておこう。そもそもテクスト解釈が誤っている可能性がある。

 本文の内容についての雑駁な紹介は以上である。グラノヴェッターは理論家であるという思いを強めた論文だったが、一つだけ不満があるとすれば、「埋め込み」とはなんぞや、ということが問われていないことである。ネットワークや人間関係に情報が「埋め込まれている」というようなことはよく言われているが、それがどうもメタファーにしか過ぎないような気がしてならないのである。この論文も、そうしたところに突っ込むようなある種の哲学的な議論が展開されることを期待していたのだが…僕の読み込みが浅いのだろうか。いずれにせよ精進することにする。